米英戦争とアメリカ国旗
アメリカ国歌にも歌われたマクヘンリー砦のアメリカ国旗とは?
アメリカ国歌の歌詞やアメリカ国旗と深い関係にある1812年の米英戦争。当時の米英ヨーロッパ諸国は、いわゆる「ナポレオン戦争」の混乱の中にあった。
アメリカは中立の立場をとっていたが、イギリスと敵対していたフランスへの支援や、植民地を巡る対立などから、イギリスによる海上封鎖や船員の拉致などの被害にあっていた。
また、アメリカ入植者達を悩ませていたインディアンをイギリスが裏で扇動していると当時のアメリカ国民は考えており、その根本的な解決にはイギリスとの戦いも止むなしとの世論の高まりがあった。
さらに、ナポレオン戦争への対応で当時のイギリスにはアメリカ大陸の植民地に戦力を向ける余裕がなく、イギリス領だったカナダ奪取のまたとないチャンスでもあった。
高まる反英世論に応え、カナダ奪取の好機を捕えるべく、アメリカ第4代大統領ジェームズ・マディスン政権下の米国議会は1812年6月18日、イギリスに宣戦布告した。米英戦争の始まりである。
首都ワシントン陥落 ~アメリカ絶体絶命~
イギリス海軍に対して当初は善戦したアメリカ海軍だったが、ヨーロッパ大陸におけるナポレオン戦争がイギリス側に有利な展開となると、イギリス軍はアメリカ大陸へ戦力を集中。1814年にはアメリカ東海岸の制海権を掌握し、イギリス陸軍が上陸。首都ワシントンD.C.を陥落させた、
とどめの一撃を食らわそうと、イギリス軍はさらに北の港町ボルティモア(Baltimore)に向け進軍。半島の岬ノースポイントから陸軍が侵攻し、海軍がボルティモア港を守るマクヘンリー砦を砲撃するという、イギリス陸海軍の同時攻撃が展開された。
同時期には英領カナダ軍もニューヨーク州北部から南進を始めており、当時のアメリカはまさに絶体絶命の危機を迎えていた。
ノースポイントでは3,200名のアメリカ軍守備隊が激しい抵抗を見せたが、5,000名のイギリス陸軍の前に敗退。ボルティモア市内まであと3 kmのところまで進軍したイギリス陸軍は一旦止まり、ボルティモア港での海軍の戦果を待つこととした。
マクヘンリー砦の戦い
イギリス海軍が向かったボルティモア港のマクヘンリー砦(右写真)では、およそ1,000名のアメリカ軍兵士が要塞を守っていた。
港の入り口には商船が一列に沈められ、イギリス海軍の入港を少しでも食い止めようと必死の抵抗が試みられていた。
対するイギリス海軍は19隻の大艦隊。中でも、1804年に開発されたばかりのコングリーヴ・ロケット(Congreve rocket)を搭載した艦船HMSエレバス(HMS Erebus)は、3kmという長大な射程でマクヘンリー砦へロケットの集中砲火を浴びせた。
このコングリーヴ・ロケット(Congreve rocket)は、ロケットと言っても今日における最新型のものとは外観が大きく異なり、例えて言うなら「巨大なロケット花火」のような形状で、15kg近くもある弾頭には黒色火薬が数kg用いられていた。
アメリカ国歌『星条旗 The Star-Spangled Banner』の歌詞には、「And the rockets' red glare, the bombs bursting in air」のくだりがあるが、この歌詞に登場する「rockets」とはまさにこのコングリーヴ・ロケット(Congreve rocket)を指している。
砲撃を耐え抜いた星条旗
イギリス海軍による砲撃は、1814年9月13日の夜明け時に始まった。1,500発以上の砲弾がマクヘンリー砦に向かって発射され、翌日の朝まで25時間継続して艦砲射撃が続けられた。
図:イギリス艦隊から艦砲射撃を受けるマクヘンリー砦
沈没船や鎖、砦の大砲で守りを固めたボルティモア港の中には入ることができなかったものの、艦砲射撃の射程はおよそ2マイル(3.2 km)、コングリーヴ・ロケットは1.75マイル(2.8 km)あり、長射程からの攻撃が続けられた。
ただ命中精度は低く、マクヘンリー砦に実質的な損害を与えることはできなかった。アメリカ軍の損失は戦死4名負傷24名を出したのみで、砦の火薬庫に着弾した砲弾も炸裂することはなかったという。
アメリカ国歌誕生へ
イギリス海軍の砲火を耐え抜いたマクヘンリー砦、そして砦に掲げられていたアメリカ国旗の雄姿は、今日のアメリカ国歌『星条旗 The Star-Spangled Banner』の歌詞に堂々と刻み込まれている。
米英戦争とマクヘンリー砦の戦いを踏まえたうえで、もう一度アメリカ国歌の歌詞を見てみると、今までよりもさらに深く歌詞の内容を感じ取ることができることだろう。
マクヘンリー砦に掲げられた手縫いの国旗
ちなみに、マクヘンリー砦の上に掲げられた国旗は、30フィート(9 m)×42フィート(12 m)もある特大サイズで、ボルチモアの旗職人メアリー・ピッカースギル(Mary Young Pickersgill/1776–1857)(右写真)が6週間かけて手縫いした特注品。
以前からイギリスとの戦争を予期していたマクヘンリー砦のジョージ・アームステッド司令官(George Armistead/1780-1818)が、遠くの艦隊からもよく見えるような特別大きい旗を用意させていたという。
ボルチモアにあるメアリー・ピッカースギルの住居は、アメリカの国定歴史建造物に指定され、星条旗ミュージアム(Flag House & Star-Spangled Banner Museum)として保存されている。当該ミュージアムにはメアリー・ピッカースギルが旗作成の報酬として受け取った544.74ドルの領収書も展示されている。
なお、マクヘンリー砦に掲げられた実際の旗は、スミソニアン博物館群の一つ、国立アメリカ歴史博物館(The National Museum of American History)で一時期展示されていた。現在は、状態悪化により2階の保管庫で大切に保存されている。
ホワイトハウスのエピソード
1800年11月に完成したアメリカ大統領官邸は、米英戦争の当時イギリス陸軍の焼打ちにあい、石積みの外壁を残してすべてが灰となった。
第4代大統領ジェームズ・マディスンは焼け残った外壁を使って再建を命じ、1817年に完成した。このとき焼けこげた外壁を白く塗装したことから、大統領官邸は「ホワイトハウス White House」と呼ばれるようになった。
現在でも焼けこげた壁の一部は保存されており、トルーマンバルコニーからこれを見ることができる。
関連ページ
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