メキシコ革命(マデーロの革命)

世界史・国際関係トピックス

フランスとの戦いで活躍した英雄ポルフィリオ・ディアスが1877年に大統領の座に就任すると、メキシコは大規模な外資導入により経済発展を遂げたが、その恩恵を受けたのは一部の特権階級のみで、地方では貧富の差が極端に拡大していた。

そこで立ち上がったのが、農民の間でカリスマ的な人気があった大農園主フランシスコ・マデーロ(右写真)。

アメリカに亡命したマデーロは1910年10月にディアス政権打倒を宣言すると、呼応した諸勢力が次々と立ち上がった。

南部でエミリアーノ・サパタ、北部ではパンチョ・ビリャ、パスクァル・オロスコ、ベヌスティアーノ・カランサ、アルバロ・オブレゴンなどが一斉に蜂起。後に言う「マデーロ革命(マデロ革命)」の起こりである。

ウエルタ将軍、マデーロを殺害

1911年5月、フランスに亡命したディアスに代わりメキシコ大統領に就任したマデーロだったが、貧富の格差の解消や土地改革にはまったく興味を示さず、保守派を満足させるだけの政治的手腕もなかったことから、革命派・保守派の双方から支持を失った。

1913年2月、保守派のビクトリアーノ・ウエルタ将軍(右写真)によるクーデターが発生。ウエルタはマデーロ大統領と副大統領を逮捕・監禁し、命の保証と引き替えに大統領辞任を承諾させた。

しかしウエルタはこの約束を反故にして、2月22日、マデーロ元大統領とスアレス副大統領を殺害した。

打倒ウエルタ パンチョ・ビリャの活躍

カリスマ的な人気があったマデーロ大統領を殺害したことで、メキシコのほとんどの革命派が一斉にウエルタ政権打倒の兵を挙げた。中でも特に活躍が目覚ましかったのが、パンチョ・ビリャ(フランシスコ・ビリャ)率いる「護憲革命軍北部師団」であった。

パンチョ・ビリャ(下写真の左)は北部チワワ州全体の支配権を握ると、首都メキシコ・シティへ向けて南下。1914年にはトレオン、サカテカスと、立て続けに占領して快進撃を続けた。

なお、パンチョ・ビリャはメキシコ歌曲『ラ・クカラチャ』と浅からぬ関係にあると考えられている。詳しくは、ドナドナ研究室「ラ・クカラチャの謎 英雄パンチョ・ビリャ」を参照されたい。

その後のメキシコ

革命派同士の争いが続いたのち、1917年に革命憲法が発布され、最終的な勝者となったオブレゴンは1920年6月大統領選に勝利。他派と和平協定が結ばれ、メキシコ革命は実質的に終了した。

1934年、国民革命党のラサロ・カルデナスが大統領に当選すると、以後2000年まで続く一党独裁体制が樹立された。工業化がすすめられたが、慢性的なインフレと貧富の格差拡大は続き、紛争の火種は今日においてもくすぶり続けている。

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