インドネシア独立の歴史
世界史・国際関係トピックス
スカルノ(Sukarno/1901-1970)は、オランダ植民地からの独立により建国されたインドネシア共和国における初代大統領。雄弁な演説とカリスマ性で祖国を独立へ導いた。
オランダ東インド会社が17世紀に現在のジャカルタへ商館を設置して以来、インドネシアの島々はオランダの植民地として数百年間支配されていた。
1942年1月、日本軍の進攻により300年続いたオランダの植民地支配はあっけなく崩壊した。
日本軍は、オランダに捕えられ流刑に処されたスカルノやハッタらの民族主義運動の指導者を解放。
郷土防衛義勇軍(ペタ/PETA/Pembela Tanah Air)を設立して軍事訓練を施し、将来のインドネシア独立への基礎を築いていった。
小磯声明により独立宣言準備
1944年9月7日には、小磯首相によって将来の独立を許容する旨の声明、いわゆる小磯声明が発表された。1945年3月にはインドネシアで独立準備委員会を発足させ、スカルノやハッタらによる独立宣言を準備させた。
そしてポツダム宣言受諾から2日後の1945年8月17日、スカルノ私邸に結集した約1,000名の立会いの下、インドネシア独立宣言を発表(上写真)。スカルノが首班に指名され、インドネシア共和国が成立した。この独立宣言は日本の軍政下で準備されたため、日付には皇紀(2605年)が用いられている。
日本兵も味方したインドネシア独立戦争
しかしオランダは独立を認めなかった。1947年7月、仲介役のイギリス軍(主に英領インド軍)がインドネシアから撤退すると、オランダ軍はインドネシアの主要拠点へ軍事侵攻を開始。インドネシア独立戦争の火蓋が切って落とされた。
戦闘には日本に引き揚げなかった元日本兵約3,000名が加勢した。旧日本軍部隊は連合国に押収されるはずの武器をインドネシアへ横流しし、3万丁以上の歩兵銃、数百の野砲、軽戦車、トラック、軍刀などが独立派の手に渡った。
国連とアメリカの圧力で終戦
12万人以上のオランダ軍を前に、旧日本兵の奮闘も及ばず、1948年12月にはインドネシア共和国の臨時首都ジョグジャカルタは陥落。スカルノ大統領、ハッタ首相らは逮捕された。開戦から80万人以上のインドネシア国民が犠牲となり、1,000人以上の旧日本兵も命を落とした。
存亡の危機に瀕したインドネシアだったが、国際世論はオランダを強く非難。国連安保理はスカルノ大統領らの釈放を決議すると、アメリカもオランダへの経済援助(マーシャル・プラン)を停止。オランダは和平協議へと強い外交的圧力をかけられていった。
写真:1949年ハーグ円卓会議での調印式。右が共和国代表モハマッド・ハッタ
1949年7月6日、スカルノ大統領らが解放されると、同年にオランダの首都ハーグで開催された円卓会議の決議により、12月27日にはインドネシアの主権はオランダ傀儡政権との連邦共和国に移譲された。
1950年には連邦が解体され、同年8月15日、単一のインドネシア共和国の樹立が宣言された。ここに、インドネシアの独立は名実ともに現実のものとなった。
インドネシア要人のメッセージ
アラムシャ元陸軍中将
(1993年にインドネシア大統領特使として来日)
「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたがオランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である。」
ブン・トモ元情報相
(Bung Tomo/Sutomo/1920-1981)
「我々アジア・アフリカの有色民族はヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが全部失敗した。インドネシアの場合は、350年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。」
モハメッド・ナチール(ナシール)元首相
(Mohammad Natsir/1908-1992)
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。大東亜戦争というものは本来なら私達インドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです。」
参考文献:
インドネシア独立記念日パレード ~異国に咲いた愛国の花~
1945年8月17日に独立宣言を行ったインドネシア。この8月17日は独立記念日としてインドネシアの祝日となり、毎年独立記念パレードが開催されている。
動画では、パレードの前日祭に集まったインドネシアの人々が、日本の歌である『愛国行進曲』、『愛国の花』、『太平洋行進曲』などを皆で楽しげに歌う様子が捉えられている。
歌詞の意味こそ知らずに歌っているのかもしれないが、みな一様に明るく楽しげに、まるで昔を懐かしみ愛おしむかのように、声をそろえて日本のメロディを口ずさんでいる。
戦後の自虐史観を植え付けられた日本ではもう二度と見られない、そして日本のマスコミでは絶対に取り上げられない、身を挺してインドネシア独立を導いた日本への思いが、この動画にはありありと映し出されている。
まさにそれは、異国に咲いた愛国の花。戦後教育で失われた日本人の魂のかけらが、確かにそこにはあった。
関連ページ
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- インドネシアがまだオランダ領だった頃の1928年に発表された楽曲
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