ガリバルディ 赤シャツ隊(千人隊)結成
世界史・国際関係トピックス
ジュゼッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi/1807-1882)は、ニースで海上貿易を営む両親の元に生まれた。
ニースは当時住民投票によってフランスに帰属していたが、ガリバルディが8歳の時、1815年にナポレオン戦争がパリ条約によって終結すると、ニースはサルデーニャ王国に割譲された。
ガリバルディは若い頃から商船の船長として各国を渡り歩き、革命家達と交流を深めながら、諸外国の支配下にあった祖国イタリアの独立のために活動を続けた。
マッツィーニとのジェノヴァ蜂起失敗により、欠席裁判で死刑判決を受け南アメリカに逃亡。ブラジルなどで14年間を過ごし、各地で戦争に参加しゲリラ戦術を習得していった。
革命家チェ・ゲバラもガリバルディの戦術を学んだとされている。彼がイタリアに帰国するのは1848年のことである。
赤シャツ隊(千人隊)結成
ガリバルディは1860年5月、「千人隊」と呼ばれる約1000人の義勇兵を集め、シチリア島西海岸のマルサーラ近くに上陸した。彼らはそろいの赤いシャツを着用していたことから、別名「赤シャツ隊」とも呼ばれた。
ガリバルディ率いる赤シャツ隊は、各地に散らばっていた反政府勢力を部隊に吸収しながら進軍。両シチリア王国の政府軍を各地で破ると、彼らに呼応した農民の反乱が巻き起こり、勢いづいた千人隊はついにシチリアの首都パレルモを陥落させた。
英雄ガリバルディに喝采
千人隊の活躍はヨーロッパ諸国に報道され、ヴィクトル・ユーゴーやアレクサンドル・デュマらがガリバルディを賞賛する論評を出すなど、カリスマを備えた英雄としてのガリバルディの名声は各国にとどろいた。
上挿絵:民衆から大歓迎を受けるガリバルディ隊
その後もガリバルディ隊は民衆の歓迎を受けながらナポリへ向け進軍を続け、9月7日には少人数の精鋭とともにナポリ入城を果たした。両シチリア王国の首都をほぼ制圧した頃のガリバルディ軍は4万人近くに膨れ上がっていた。
サルデーニャ王国との対立
イタリア統一運動を主導的に進めていたサルデーニャ王国だったが、目標はあくまでも北イタリア王国の樹立であり、南部まで含めた半島全体の統一は考えていなかった。
ガリバルディ隊の快進撃を前にして、統一運動の主導権を奪われかねないと恐れたサルデーニャ王国の首相カミッロ・カヴールは、サルデーニャ軍を南部派遣。さらに10月のサルデーニャ議会でシチリアと南イタリアの併合を決議した。
サルディーニャの一方的な併合に対し、ガリバルディら民主派は議会招集や憲法制定の準備を整え、対立の構えを見せていたが、サルデーニャ側が併合の是非を問う住民投票を強く要求。結果は合併賛成が圧倒的多数で決まり、さすがのガリバルディも民意に従わざるを得ない状況となった。
テアーノの握手 ~イタリア王国成立~
住民投票の後、サルデーニャ王国の王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、イタリア南部のセッサ・アウルンカ (Sessa Aurunca)に入城した。サルデーニャ軍とガリバルディ軍が睨みあう中、テアーノ(Teano)テアーノでヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はガリバルディとの会見に応じた。
上挿絵:テアーノの会見(作:Sebastiano De Albertis)
ガリバルディは謁見の場で「ここにイタリアの王がおられるのだ!」と宣言すると、全ての領土をサルデーニャ王国に謙譲した。このガリバルディの決断は「テアーノの握手」として賞賛され、後のイタリア史において愛国的な神話として語り継がれている。
1861年2月18日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は初代イタリア王へ即位。首都をフィレンツェとするイタリア王国が建国された。その後は1866年にオーストリアから北東部のヴェネト地方を奪還。1870年にはローマを包囲・占領し併合。翌年にはローマに遷都している。
関連ページ
- イタリア国歌 マメーリの賛歌 Inno di Mameli
- 歌詞が作詞されたのはイタリア統一運動の機運が高まっていた19世紀前半頃