八十年戦争(オランダ独立戦争)
世界史・国際関係トピックス
16世紀のオランダ(ネーデルランド諸州)は、15世紀末からハプスブルク家のスペインに植民地化されていた。ネーデルラントにはプロテスタントのルター派が広まっていたが、スペイン国王カルロス1世は異端審問官を設置しプロテスタントを弾圧した。
息子フェリペ2世も異端審問を継続。ネーデルランド貴族の反発が強まると、スペインの将軍アルバ公を指揮官とする1万の部隊をネーデルラントに派遣。総督となったアルバ公は「血の審判所」と呼ばれた異端審問機関を設け恐怖政治をしいた。
上写真:オランダ・ユトレヒト(Utrecht)の水路
オランダ独立戦争(八十年戦争)
アルバ公の追及から逃れるため、有力貴族オラニエ公ウィレム1世(右挿絵)はドイツに亡命していたが、アルバ公はオラニエ公ウィレム1世に従う貴族の財産や土地を没収。
迫害を受ける同志を救うべく、1568年4月、オランダに侵攻しアルバ公の軍に戦いを挑んだ。以後1648年の独立承認に至るまでの80年間にわたるスペインとの「八十年戦争」が勃発した瞬間である。
スペイン軍に勝利する局面も見られたが、序盤戦での反乱軍は結局敗退。オラニエ公ウィレム1世はフランスに逃れユグノー(改革派教会)と合流すると、「海乞食(ワーテルヘーゼン)」と呼ばれる海賊軍団(ゼーゴイセン)を組織し、再起の機会をうかがった。
やがて力を蓄えたオラニエ公ウィレム1世はホラント州、ゼーラント州の総督となった。スペインの迫害を受けていたプロテスタントが各地から集まり始めると、オラニエ公ウィレム1世は1579年にユトレヒト同盟(Union of Utrecht)を結成。ネーデルラント北部7州が団結し、対スペインの軍事同盟が誕生した。
オラニエ公ウィレム1世 暗殺される
1580年頃にはネーデルラント連邦共和国が成立、翌年(1581年)ネーデルラント北部諸州は連邦議会においてフェリペ2世の統治権を否定する宣言を出した(実質的な独立宣言)。
スペインとの戦いは依然続いていたが、1584年7月10日、フェリペ2世を信奉するフランス人のカトリック教徒の銃弾を受け、オラニエ公ウィレム1世は暗殺されてしまう。
その後は次男マウリッツが総督として再び北部7州をまとめ上げ、対スペイン戦争を継続していった。1602年にはオランダ東インド会社が設立され、貿易の富により17世紀のネーデルラント連邦共和国は黄金期を迎えた。
スペインとは1609年からの12年間に及ぶ停戦協定の後、ヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争に突入。1648年にスペインはネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認し、80年にわたるオランダ独立戦争(八十年戦争)はその幕を閉じた。
関連ページ
- オランダ国歌
- 八十年戦争を指揮したオラニエ公ウィレム1世を題材としている